昭和42年7月13日 朝の御理解



此の方の行は、火や、水の行ではない。家業の行と仰る。家業そのものを行として、これは、信心だけのことではありますまいけれども、あー、全ての事にそれが言えると思うんですね。やはり、一つの行というものが、あー、必要なんです。いわゆる、修行と申しますね。大工の弟子に参りましても、やはり、五年なら、五年の修行がいります。ね。何の職業に致しましてもやはり、その、業を通してまいりません事には、本当のことは出来ません。ですから、問題は、それを本当にあの、業を行として自覚することなんです。ここんところで一つ、あの、間違えてはならないことは、火や水の行ではない、家業の行だと。と仰るから、お互いが、家事にいそしむと言う事、その事が行なのだ。から、実はもう、お参りも、信心修行もいらないと言うような事ではありません。信心修行は必要です。ね。ですから、火や水の行がいけないというのじゃない。お参りの行などとはもう、絶対必要なのである。ね。それはその、どういう事かと言うと、家業の行を行たら占めるための行なんです。ね。ですから、ただ、もう、自分が一生懸命働くことが修行だと、というておって、果たして修行になるだろうか。それは考えられない。家業の行というのは、ね。どこまでも、私は、信心の、おー、信心修行、ね。または、ここには、信心の稽古に通うて来るところと仰るお参り、その稽古が出来、お参りが出来て初めて、家業の行が行という事に、段々、なってくるのではなかろうか。如何にお参りをしておっても、なかなか、家業の行が行になりません。ね。ですから、この、信心修行と家業の行とが一つになってできる時に私は、ほんとにその、有難い信心生活というのが出来ると私は思う。ね。そんならです、お互いが、それぞれの、いわば、持ち場、または立場、いわば、天職と言われるその、天職にいそしんでおる。その、一生懸命働いておる。ね。その神様に与えられた仕事。そういう私は、その、天職としての、おー、自覚を持ってその事に取り組んでいく。それで私は思うんですけれども、その、家業の行が行という事になって、おかげを頂き、御徳が頂けれるような家業の行、いわゆる、うー、その、お仕事ぶりとでも申しましょうか、銘々が、頂だいておる、その仕事ぶりというものが、どういう風になったときが、言うなら、本当の家業の行になるだろうか。私は思うですね、例えば、お百姓さんたちが、もう、私、素晴らしいと思うんですね。私は、うー、うー、夫婦が使っております部屋の直ぐ南側、あそこは、大体良いとじゃないらしいんです、あんまり。あそこはふかばですから。それでもついこの頃、田植えがあっておった。それでやっぱり、毎日、あそこへ出て見えるんですね。そして、まあ、肥料を施したり、田の草を取ったりなさっておられるが、もう、ほんとに何日でしょうか、それにもう、黒々として、もう勢い良くその、まあ、稲がしこって行きよります。私は、あれを見るときにですね。お百姓さん方は、楽しいことだろうなと思うんです。ついこの頃、田を植えたばっかりなのに、もう何日もせんうちに、あんなに、黒々と、しかもこう、稲がよりをついてですね、なんか頼もしい、もうほんとに頼もしいというか、楽しいというか、お百姓さんという仕事は、健康で、その事が、本当に家業の行として、ほんとに出来たら、こんなに素晴らしい仕事はなかろう。暑い炎天の中に、ね。田畑に出ておられます。もうそれこそ、光るような、あー、その、おー、汗を、見ておる者が感じるくらいに、汗水流して働いておられる。実にそれが、尊いものとして見える。そこで私は、その働いておる人達、その人達もです、自分たちの仕事のその尊さという事に、自覚を持って、はたしておられるだろうか。これだけ作って、幾ら方しかならん。ああまた、この暑かつに、あの田に出らにゃならん、畑に出らにゃならんといったようなものであっては、私は、家業の行にはならんと思う。ね。これは、お百姓さんだけの事ではありませんよ。ね。それぞれの、いわば、頂いておるその、お仕事というものをです、ね。だから私はあの、行といや、必ず、おかげが付きものと仰るんです。信心に修行は付きもの、その修行に、おかげは付きものなんです。ですから、本当に、家業の行が、家業の行として出来ておればです、もう、絶対、大繁盛のおかげ頂くはずだと思うですね。(もしもさるぶんというなら?)より、より良い立派なものが出来ると思うですね。ところが、家業の行が行にならんところにです、私は、難儀があると思う。その家業の行が行にならん、それで、どうでしょうかね。家業の行が行にならずに、どうぞ商売が繁盛いたしますように、農作物が良く出来ますように、これはどうも、本当の事ではないと思うですね。どうでしょうか、皆さん。ね。お商売なら、お商売させていただいた、そのお商売そのものが、家業の行になっておらずに、どうぞ、今日、お商売が繁盛いたしますように、これでは、御道のご信心ぶりでおかげを受けると言う事ではないのです。もう、大変なところですね、ここんところは。
此の方の行は、ね。火や水の行ではない。家業の行ぞと仰る。お、そんなら金光さんの信心な、家業の行ならば、家で仕事さえしとけば、それが修行じゃろから、ほんなら、お参りはいらんかと、というようにです、いわば、早合点する人があります。ね。金光さんのご信心な、もうとにかく、自分の仕事一生懸命にすらすりゃ良いかつばの、参らんでん良か。だから、これは家業の行であって、信心の行じゃない。信心の行が、いわば、実意丁寧神信心が出けてこそ、初めてです、家業の行が行として出来るようになるのであって、そうして、実意丁寧神信心が、いや、実意丁寧と言うよりも、一心に、熱心にとでも申しましょうか。熱心にお参りが出来ておっても、家業の行が行としてならない人がある。家業の行の自覚に立ってない人がある。ああ、またこの仕事ばせんならん。また、この暑いのに、田に畑に出らなきゃならないと言ったような事ではいけない。これは、私共が見る、お百姓さんのお働き、働く姿とでも申しますか、働いておられる姿というものは、実に尊いものである。ね。しかも、美しく見えるものである。ところが、自分、働いておるその人自身が、美しいものとも、尊いものとも感じずに、ここで、これだけすりゃ、幾ら方なるから、ね。ああ、とてもこんな仕事は、もう、孫子の末までさせるもんじゃなか、もう私一代で結構だ、沢山だといったような事では、家業の行にはなっていないという事。これは、お商売でも同じことなんです。皆さん、今日は、ここんところを一つ、分って、ここんところを一つ取り組んでいかなければならない。人が見て、もう本当に、はー、あの人が一生懸命にしておられる時には、本当に、尊いものに見えるようになる事と同時にです、ぐらいの一生懸命のものと同時にですね、自分自身もまた、天職としての頂き方というか、与えられた仕事というか、その事を、実意丁寧にさして頂いておると言う事が有難い。そこで、先ず、体の丈夫を願え、何をするにも体が元なりと仰る。どんなに自分の好きな仕事であってもです、ね。天職であってもです。さあ、身体が悪い、どこが痛いと言うておったんでは出来ません。そこで、第一、体の丈夫を本気で願わせて頂いてです、その体の丈夫のおかげを頂いておるという事をもって、信心修行がされるんです。そこには、火の行も又よし、水の行もまたよし。日参の修行は、また尚更良いという事になるのです。ね。そして、信心が分らせて貰うて、その信心が家庭の中に、家業の中に、本当に取り入れられるという生活、信心生活であって、そういう、私は、御用にね、お互いが生き生きとして、楽しんで、その御用の中に取り組んでいけれると言う事。もう、絶対繁盛です、これなら。私は思うですね。ほんならこれを、お広間、教会関係のことにしても良いですよ。どうでしょうね、私がここで、こうやって、日々奉仕させて頂く事が、はー、今日一日、座っとりゃ、幾ら方なるけんでと、言うなら、食べる為の、これが御用であったら、いかに紋付袴付けておりましてもです、ね。おそらく人は助からないだろう、勿論、ご祈念は頂く事は出来ないと私は思う。ね。問題は、人が助かることさえ出来ればよいのである。それが楽しみなのだ。お百姓さんが、これが、幾ら方なろうが、なるまいが、こうやって、一生懸命させて、見事な作物が出来るということが楽しいのだ。こうやって、牛負いをさせていただいて、商品、いわば、ここへ高芝さんか、( ? )さんがおられる、ね。化粧品なら、化粧品という、その品物がです、買うて貰うお客さんにも喜んで貰えれる、という事。美しゅうなってもらえると言う事が楽しい。ね。そこに絶対心が必要なんです。はー、洋服屋さんというのがある、はー、でも、こげな仕事はもう、て言うのじゃなくて、その仕事は、それを例えば、着て貰う時にです、その人に喜んでもらえる事を思うたらです、思わず、一針、一針に思いが込められるというような、あり方。それが、成就していく、出来上がっていくことの楽しみというか、喜びというか、一つの、おー、創作の楽しみでしょうね。そこに私は、一枚、一枚縫い上げられていく上にです、この前のよりも、今度のほうが垢抜けしておるといったようなものが生まれてくると思うです。おなーじ事。どがしこ縫うたっちゃ、もう、十年前の洋服と、十年後の洋服が、原洋服店に言うたっちゃ同じことというなら、頼んじゃなかと私は思うですね。ね。そこに、いつも、その時代が一つの流れというか、流行なら、流行というか、またそれを着る人の、おー、心にとこう、おー、アピールしていくというか、ね。それこそ、お客さんの願い以上のものが、出来上がっていくというような、そこに楽しみを持っていくような、私は、仕事でなからなければですね、私は、本当の繁盛になって来ないと思う。いかに繁盛願ってもです、幾ら、お繰り合わせだけを願っても、それは駄目だと思う。もう、銘々が仕事に、銘々の御用の上にそれが言えるんです。そこで、お互いですね、果たして自分の頂いておるその、職業に対してです、果たして、家業の行としての行が出来ておるかどうかと。ただ、家業の行だからと言うだけではなく、家業の行なら、家業の行らしい行になっておるかどうかと。それが、こんだけすりゃ、幾ら方なる、これをすりゃ、ね。これが飯の種だと、言うようなことであっては、繁盛はしない。ね。例えば、教会なら、教会の先生がです、ね。いかに紋付袴を着けて、きちっとしておってもです、それが、こう一日、ここへ座っとりゃ、幾ら方なるけんでという、まあ、幾ら方なるけんち言うが、まあ、それがその、生活の為にですたいね、いわば。もし、その、いかにもその、なお、神前奉仕と言うても、それは神前奉仕じゃないです。自分に奉仕しておるだけなんです。自分の家族に奉仕しておるだけなんです。信者に奉仕してない。神様にも奉仕してない。それで、信者が助かるはずもなからなければ、神様の喜んで頂くようなゴヒレイというものが頂ける筈がない。同じことが、銘々の家業の行の中にも、それが言えたでしょうもん。ね。だから、私が、いつも、原さんに言うんですよね。先ず、無心に拝みなさいと私が言うんです。ね。言うならば、私が、ここ御結界に奉仕する、座る時のような気持ちで、いわば、無心にお仕えなさいというようなです。例えば、志賀さんに言うんです。どうですか、ね。三本鍬、鍬、鎌、というような、例えば、農機具がです、光り輝きしておるかどうか。使うたなり、泥の付いたまま、引っ掛けられておるような事では私は、本当の家業の行とは言えないと、私は思う。言うなら、百姓の魂であるところの、鍬、鎌がです、光り輝きするような、私は、おかげを頂かなければ、家業の行とは言えんと思う。例えて言うならね。その家業の行がです、本当に出け、それをおろそかにされてから、いかに神様の前に、さかたんぼ売ったところで、それは駄目なんです。ね。それなら、その家業の行だけ一生懸命で着たらいいのか、そらもう、残るとが楽しい、と言う人もやっぱりあります。最後に残る、残るとが楽しい。これでは家業の行にならん。高い、安い、残る、残らないは別としてです、ね。その事に、生きがいが感じられ、その事に、有難いものが感じられるような、いわば、私共が、お百姓さんが、一生懸命働いておられる姿を見て、尊い姿に見れれるように、その働いておる、その人自身も、尊いものの自覚を持って、その御用に携わっておられるかどうかという事が問題なのである。ね。信心を奉修しておる金光様の先生なら先生がです、本当に、人が助かることさえ出来れば、神様が喜んでさえ下さればと言う精神を持って、御結界奉仕が出来るなら、そこの教会は、必ず繁盛すると思う。ゴヒレイが頂けれる。人が助かる。ね。
私は、昨日、どういう神様のご都合であったか知りませんけれども、もう、とにかく、手足がですね、ちぎれるような感じでした。久富先生と、繁雄さんと泊まっていただいてから、もう、ずーっと、交代でもみ続けにもんでもらいました。もう、本当にあの、死ぬる時には、そうにゃ身体がだるかと言う話があるが、もう死ぬとじゃないだろうかという程だるかった。もうちょっと、手で、こう触って貰うだけで気持ちが良い。ね。というような状態でしたが、昨日、とうとう、一日、御無礼を致しました。ところがです、一日間休ませて頂いておってから思うこと。本当に、寝とかねばならんという事は、こんなに術ないものかという事。それは苦しさは別として、もう、あうーっと、上下から、もう冷やし通しでした、熱がございましたから。ね。幾ら食べても足らんごたる、私の食欲旺盛な私が、とにかく、ご飯が、砂を噛むようにありました。熱のためでしょう。ね。そうやって、一日、御無礼を致しまして、一日、休ませて頂いたから、いかにも、楽な様であったかというと、そうではなかった。もう、とにかく、昼ごろから、腰が痛うなり出したんです。もう、私共は、何時間としか、寝るとを決めてないもんですから、それ以上寝たら、もう腰が痛くなるんです。もうとにかく、仕舞いにはもう、海老ん様に縮んで寝らにゃん。らにゃ、今度は腰のほうが痛か。これは、ほんにもう、一週間も、十日も寝らにゃんと言うたらもう、どげんなるだろうかと私は思いました。ね。そして、今朝、ここへ着かせていただいてから思う事なんです。これは、何時もの事ですけれども、どうも私にゃ、もう、ここが一番良かとこだな、ここが極楽だなと思うんです。もう、これはしみじみと思うんです。ね。それとても、今日、おかげで、さわやかに、すっきりと五体のおかげを頂いておるからでもございます。なるほど、私には、ここが一番良い。お百姓様が田の中に、畑の中に入ってです、ここが一番私の、おー、幸せな場であると言うふうな自覚。自分の職場に立ってです、ね。もう、どこに、何が、どういう、その、なるほど、いかにも温泉に行ってこうと言や、良かろごたろけれどもです、さあ、それを毎日せにゃならんというなら、こげん術ないことはないという事が分ってくる。ほんとに自分の職場が一番有難いんだという事が分らせて頂く。おかげを頂かなければいけんと私は思うのです。ね。ですから、先ず、なんと言うても、体の丈夫を願わなければならない。体の丈夫を願わせていただいて、信心修行を怠ってはならない。ね。その、信心修行がそのまま、家業の行に繋がっていく。そういう、修行であって、此の方の行は、火や水の行ではない、家業の行じゃと仰る行。しかもその、家業の行になら、絶対、おかげが付きものであるという事です。ね。これだけ一生懸命働きよるのに、残らんというなら、家業の行が行になっていないからなんです。ね。売らんから、ね。儲からんかの為の家業であるならば、もう、家業の行じゃない、ね。そこんところを、皆さんが、本当に分からせて頂いてですね、自分の頂いておる家業の中に、女の方達が、例えば、炊事、ね、炊事洗濯をなさる。その事の中にです、もうほんに、また、山んごと貯まっとる、洗濯物が、もう、見たばっかりで、くーっとするち言うごたるですね、事ではおかげ頂かれん。なるほど、洗濯は出来る、垢は落ちるかも知れませんよ。けれども、それが、おかげの元になる、徳になると言う事はないです。ね。今、拭いたつに、もうこげん汚してから、というような事じゃいかん。また、お掃除が出来るというようなですね、また、修行が出来るといったようなです。いや、今日は、沢山修行が出来よるなと。もう、例えばその、山のような洗濯物を見てから、一つの、ファイトが沸くようなです、あり方。そのためには、どうぞ、信心修行が必要であって、信心修行である師によって頂くところの、生き生きした喜び。生き生きとした、その有難いというものが、原動力にならなければ、それが出来ることじゃないと言う事。あー、また、今日も、こん暑かつに、商売に出らにゃならん、また、田に出らなならん、畑に出らんならんというような事になってくるんです。ね。尊いものも、何もあったもんじゃない。どうぞ一つ、家業の行、今日、私は、家業の行という事を申しました。いつも頂くんですけれども、今日のような意味での、御理解は初めてでしたですね。ですからその、家業をその、ただ、してさえおれば家業の行じゃないです。なら、家業の行しておればもう、信心修行いらないかといったような事でもない。信心修行とは、もう絶対、対のもの。それが、伴おうておらなければ、家業の行は本当は出来ない。信心修行が出来ておるから、家業の行が出来るかというと、そうでもない。ね。お互いが、銘々、自覚がいる。それであって、初めて、私はですね、子供達が、例えば、ほんなら、今、教会子弟の育成と言う事が非常に高まって、叫ばれております。子供達が、金光様の先生にはならんという。そういう教会が大変多い。私は、おそらくそこの先生がですね、言うならば、神様奉仕も、神前の奉仕も出来とらんのじゃなかろうか、自分の家族のために、奉仕をしよりなさるぐらいじゃから、とてもあげな術なかこつはできんと言うて、子供達が付いてこんのじゃなかろうかと、私は思うのです。本当に、お父さんの、人より偉業と言うものは、何と尊いものであろうかと、本当に、人が助かると言う事は、なんと有難いことであろうかと。こういう、御用がほかに、またと、こういう尊い行がまたとあろうかというよなものがです。言わず、語らずの中にこう、にじみ出るようなものがあればです、とてもその子が、私は、教師にはならんなんて言う様な子供はおらんと、私は思うですね。ここに、お互いの家業の行というのは、身になっていないと言う事がです、問題だと私は思うのです。ね。それは、教会関係の事だけではありません。銘々の行の上においても、ね。その行の中に、本当に、喜びと、楽しみとがいっぱい、有難さがいっぱいと言うような、御用をさせていただいてこそ、初めて家業の行と言う事が言えるんじゃないかと思うんですね。どうぞ。


中村良一
2005年4月13日